任天堂といえば、wiiやニンテンドー3DS、最近では「Nintendo Switch」といったゲーム機本体の販売を手掛ける会社として有名です。
しかし、初期の任天堂は花札やトランプの販売メーカーであり、また一時期はタクシー会社の運営等の多角経営を行っていました。
今回は、任天堂を電子ゲーム会社として成功させた「山内 溥」という人物の経歴・人物像について迫りたいと思います。
目次
山内 溥の経歴
子供時代
「山内 溥」氏は、1927年に京都市で生まれました。
任天堂創業家の生まれであり、創業者・山内房治郎の曾孫に当たります。
幼少時に父・山内鹿之丞が近所の女性と駆け落ちして失踪した後、祖父母に育てられることになりましたが、比較的に裕福な環境で育てられました。
その後、早稲田大学専門部法律科に進学しました。
任天堂の社長就任
1947年、花札・トランプ製造会社の合名会社山内任天堂の販売子会社であった株式会社丸福(現在の任天堂)の設立時に取締役に就任しました。
跡継ぎとして育てられていた「山内 溥」でしたが、その2年後、1949年に祖父で二代目の山内積良が病気で倒れ、急遽祖父の後を継がざるを得なくなりなりました。
22歳で株式会社丸福かるた販売の代表取締役社長に就任。
1950年に早稲田大学卒業し、会社名を任天堂かるた株式会社に変更しました。
「山内 溥」氏はアイディアマンであり、1953年には日本初のプラスチック製トランプを開発しました。
しかし、トランプはそれまで博打の道具としてしか認識されていませんでした。
そこで、「山内 溥」氏は、トランプに「ディズニーキャラクターを絵柄に使用」、「遊び方の簡単な説明書を同梱」を行うことで、トランプを子供向け・家庭の団欒のための玩具として再定義し、全く新しい層を新たに取り込むことに成功しました。
1959年に発売したディズニートランプは大ヒットし、任天堂の業績をかつてないほど上げ、任1960年代前半には一躍業界トップに躍り出ました。
多角経営による任天堂の迷走
「山内 溥」氏は、1958年に訪れたアメリカ最大手のトランプ会社であるU.Sプレイング・カード社の工場とオフィスが、最大手であるにもかかわらずオフィスの規模が想像以上に小さかったことに衝撃を受けていました。
そのため、「トランプだけではちっぽけな会社で終わってしまう」と悟り、多角経営の道を探り始めることになりました。
1960年には、タクシー運営を行うダイヤ交通株式会社を設立、1961年には近江絹糸と共同出資で三近食品を設立し、「山内 溥」氏は各社の代表取締役社長に就任しました。
その他、任天堂自体も他業種に進出したが、ノウハウ不足などによりことごとく失敗してしまいます。
更にトランプブームが一段落付き、1964年に任天堂は一転倒産危機に直面することになります。そして、山内は1965年に三近食品、1969年にダイヤ交通の経営から手を引きます。
任天堂が苦境に陥っている最中、1965年に入社した横井軍平氏が暇つぶしで作っていた遊び道具を1966年にウルトラハンドとして商品化させたところ大ヒットを記録しました。
横井軍平氏を玩具商品開発の主任に据えることで、それ以降、電気・電子関係の技術を使った目新しい玩具でヒットが続出することになります。
1970年の光線銃SPのヒットさせたことをきっかけに、光線銃SPの発展版ともいえる「レーザークレー射撃場」という施設を全国各地に展開させようと試みました。
しかし、一時は軌道に乗り掛けたものの、運悪く第一次オイルショックが起き、その影響で建設計画撤回が相次ぎ、任天堂は多額の負債を背負い、再び倒産危機に直面することになります。
電子ゲーム会社として発展する任天堂
しかし、「山内 溥」氏は、アーケードゲームに可能性を見出し、その路線を突き進むことになります。
タイトーのスペースインベーダーの大ヒットにより、亜流のインベーダーゲームが氾濫していた際に、任天堂は『スペースフィーバー』でこれに参戦。
「山内 溥」氏は、テレビのインタビューで「遊び方にパテントは無いわけです」「これからの娯楽業界の発展のためには、むしろこういった新たな技術を互いに公開・交流することが大切」といった旨の発言しました。
その一方、アーケードゲームだけでなく、家庭用テレビゲーム機も数多く手掛けることになります。
そして、1980年には携帯型ゲーム機「ゲーム&ウオッチ」が大ヒットし、多角経営時代とレーザークレーの負債を完全返済しても、ありあまるほどの規模となる利益を獲得することができました。
さらに、「アーケードゲームを家庭で」という目標に向けて、据え置き型ゲーム機「ファミリーコンピュータ」の開発を始めました。
この際、「山内 溥」氏の「アーケードはもうやめや」の一言で、アーケードゲームの事業規模を急激に縮小させ、家庭用テレビゲームに専念する体制が取られることとなりました。
1983年には、任天堂を東京証券取引所市場第一部に株式上場させるとともに、ゲームカートリッジ交換式の家庭用ゲーム機「ファミリーコンピュータ」を発売しました。
なお、1985年に発売したファミリーコンピュータ用ソフト『スーパーマリオブラザーズ』は、後に世界で最も売り上げたゲームソフトとしてギネス世界記録に認定されることにもなりました。
その後も、携帯型ゲーム機「ゲームボーイ」、「スーパーファミコン」、「NINTENDO64」等の大ヒット商品を発売し続けました。
社長退任後
2002年に、HAL研究所から同社取締役へと呼び寄せていた「岩田 聡」氏に社長職を譲り、取締役相談役に就任しました。
岩田を社長に任命する直前、一対一で3時間経営哲学を語り、この際に「異業種には絶対手を出すな」と言い残したといわれています。
また、会社の意思決定は社長への一任ではなく、取締役会での集団指導体制へと移行を促すとともに、「二画面」のゲーム機開発を促し、これが後のニンテンドーDSにつながります。
2005年に取締役を退任し、役職は相談役のみとなります。
その際、任天堂側からは長年の功績に対する慰労金として12億3600万円を提示されていたが、山内は「それよりも社業に使ってほしい」と、この申し出を断っています。
2013年9月19日、肺炎のため京都市左京区の京都大学医学部附属病院で死去(満85歳没)。なお、葬儀は任天堂本社で社葬として執り行われました。
山内 溥の人物像
「山内 溥」時代の任天堂は情報公開が少なく、ファミコンカセットのロイヤリティー問題、ゲームボーイの投げ付け、リコーの話など噂に尾ひれがついたものが多数あります。
「山内 溥」氏は、大のマスコミ嫌いであり、そのため訂正するタイミングを完全に逃したものも多いと思われる。
なお、岩田氏が社長に就任して以降の任天堂は、インターネット等で積極的に情報公開するようになっており、かつての定説が崩される事が増えています。
「山内 溥」氏は、「独特の経営哲学」で知られ、ワンマン経営者の典型として語られる事が多いが、幹部社員からは以下のような声もあり、カリスマ性にも優れ、幹部社員から厚い信頼を得ていたようです。
- 「皆、社長の喜ぶ顔が見たくてやっている」
- 社長が笑うた顔を見たいがためにみんなつくっている」
NINTENDO64発売当時、スクウェアが「ファイナルファンタジーシリーズ」最新作(Ⅶ)のプラットホームをNINTENDO64からSCEのプレイステーションに変更したことに激怒したとされているが、実際は当時のスクウェア側の任天堂に対する侮辱的発言によるものが大きいとされています。
なお、その影響で、スクウェア関係者は山内が社長から退任するまで任天堂本社に出入り禁止となっていたとのこと。
社長だった頃の、強烈なカリスマ性やワンマン経営、そして何よりもその風貌と歯に衣着せぬ物言いから、インターネットコミュニティ上では「社長」ならぬ「組長」とも呼ばれていました。(嫌悪感からでなく、『愛称』としての側面が強い)
経営者としては賛否両論も多い「山内 溥」氏ですが、ゲーム業界に与えた革命は多く、それはもしかしたら、多角経営での失敗が活かされているのかもしれません。