岩田 聡 ~経営者としての才能を開花させたプログラマー~

前回紹介した「山内 溥」氏の後を引き継ぎ、任天堂の社長に就任した「岩田 聡」氏

ニンテンドーDSやwiiといったヒット商品を生み出した社長でありながら、満55歳で逝去された方です。

今回は、プログラマー出身の社長として任天堂を率いた経営者「岩田 聡」氏の経歴・人物像について迫りたいと思います。

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「岩田 聡」氏の経歴

子供時代

北海道札幌市生まれ、北海道札幌南高等学校に進学します。

高校時代、「岩田 聡」氏はHP社のプログラム電卓「HP-67」の存在を知り、アルバイトをして貯めた資金と父親の援助によって購入、独学でプログラムを学び、『スタートレック』を題材とした自作のゲームを開発しました。

そのゲームをHP社に送ったところ、出来の良さに驚いた同社からは、大量の会社案内の資料が送られてきたといいます。

その後、東京工業大学工学部情報工学科に進学します。

大学1年時の1978年には、コモドール社のパソコン「PET 2001」を購入するとともに、それを販売していた西武池袋本店のパソコン常設コーナーに毎週のように通っていました。

そこで、プログラミング好きな店員と出会い、後に「HAL研究所」に入社するきっかけとなります。

HAL研究所に入社

「岩田 聡」氏がまだ大学在学中、上述のパソコンコーナーの店員が「株式会社HAL研究所」(通称「ハル研」)の設立に関わることになり、店の常連だった「岩田 聡」氏は誘いを受けて、アルバイトとして勤務することになります。

そこで、「岩田 聡」氏はプログラミングに熱中、大学卒業後にHAL研究所の正社員となります。

それまでのHAL研究所にはソフトウェア開発を担当する社員がおらず、「岩田 聡」氏はその第一号となりました。
なお、当時のHAL研究所は社員数5人の小さな企業であったため、両親は反対し、特に父親とは入社から半年ほど口を利かなかったといいます。

入社2年目となる1983年に、任天堂から「ファミリーコンピュータ」が発売されました。
これに強い関心を持った「岩田 聡」氏は、京都市にある任天堂に直接出向いて仕事請負の申出を行い、『ピンボール』『ゴルフ』といったファミコンソフトのプログラミングを担当することとなりました

また、1985年1月に発売された『バルーンファイト』のファミコンソフトを担当した際に、既存の電子ゲーム版よりも滑らかなキャラクターの動きを実現することに成功しました。

その滑らかな動きは、同年に発売される『スーパーマリオブラザーズ』の水中ステージに活かされることになりました。

HAL研究所の社長に就任

1992年、HAL研究所はゲーム事業の不振と不動産投資の失敗により多額の負債を抱えて経営危機に陥り、和議を申請することになります

その際、当時の任天堂の社長であった山内氏が「岩田 聡」氏を社長に据える事を条件に資金援助をするとしました。
その結果、1993年に取締役開発部長であった岩田が代表取締役社長に就任しました。

「岩田 聡」氏はそれまで経営とはほぼ無縁の立場でしたが、社長就任後には優れた経営手腕を発揮することになります。

社長就任後、会社や仕事への不満を聞き取る目的で全社員との面談を実施したとのこと。
この中で、社員との対話を重ねることが組織運営力や勤務意欲の向上に繋がると感じ、以降、この面談を半年に一度のペースで行うようになりました

ちなみに、後に任天堂社長になった際には、全社員ではないものの、直属に近い幹部社員に対して同様の面談を行っていたとこと。

社長による面談による社員の勤務意欲の向上、『星のカービィ』等のヒット作品が生まれたこともあり、15億円あった負債を6年間で完済、HAL研究所の経営再建を成功させました。

なお、経営業の傍らでプログラマーとしての活動も続けており、

当初は開発に関与していなかった『MOTHER2』が約4年の歳月を経ても完成しなかった際には、開発現場に行き、「今あるものを活かしながら手直ししていく方法だと2年かかります。イチからつくり直していいのであれば、半年でやります」と申出て、開発を請け負いました。

その後、宣言通りに半年で大枠が出来上がり、そこから更に半年で内容に磨きを掛けて、結果、約1年で完成させました。

任天堂に取締役として就任

2000年に、任天堂社長の山内氏に経営手腕を買われて任天堂に入社し、取締役経営企画室長に就任しました。

2001年に米国で行われたゲームの見本市「E3 2001」では、発売を控えていた新型ゲーム機「ニンテンドーゲームキューブ」に関するプレゼンテーションを行っています。

また、『大乱闘スマッシュブラザーズDX』の開発が遅れ、発売予定までの完成が危ぶまれる事態に際しては、HAL研究所に出向いて開発現場を指揮するとともに、不具合を調べる作業(コードレビューやデバッグ)を行いました。
なお、これが「岩田 聡」氏のプログラマーとしての最後の仕事だと言われています。

2002年(42歳)に、山内氏から指名を受け、6月1日付けで任天堂の代表取締役社長に就任しました

任天堂は、山内溥氏の曽祖父である山内房治郎氏が創業して以来、山内家の同族経営であったため、当初、次期社長は山内溥氏の長男か娘婿だと言われていました。
そうした中での入社2年目の「岩田 聡」氏の抜擢は、異例中の異例でありました。

なお、それまで会社の意思決定は社長に一任されていましたが、「岩田 聡」氏社長就任以降は取締役会によって決定されることとなりました。
これは「今後の時代に対応するには、集団指導体制にするべき」と考えからとのことです。

2003年に開催された東京ゲームショウの基調講演を行い、「日本のゲーム市場では、ゲーム離れ現象が進行している」と、業界全体への危機感を示しました
また、こうした状況を打開するため、任天堂は「ゲーム人口の拡大」を基本戦略として位置づけ、幅広い層を対象としたハード、ソフトの開発に取り組むこととしました

その一環として、2004年に、タッチパネルを搭載した2画面携帯型ゲーム機「ニンテンドーDS」を発売。


この商品は大ヒットして、年末年始のみで、なんと約150万台も売り上げました。

翌年2005年からは、多くの世代が手に取ることを目指したソフト「Touch! Generations」を展開し、ミリオンセラーのソフトを複数生み出すことに成功しました。

特に『脳を鍛える大人のDSトレーニング』は社会現象となり、略称の「脳トレ」は流行語にもなりました。

2006年には、リモコン型コントローラで操作する家庭用ゲーム機「Wii」を発売。
このWiiでは毎日電源を入れてもらうことを目指し、天気やニュース等の様々なコンテンツを配信する「Wiiチャンネル」を内蔵しました。

しかしながら、2011年には、ニンテンドーDSの後継機「ニンテンドー3DS」の普及が進んだものの、本体価格の値下げによる逆ザヤ状態での販売が続いたことなどが響き、2012年3月期の決算で通期営業赤字に転落

また、2012年に発売したWiiの後継機「Wii U」は販売台数で苦戦し、特に海外市場での販売鈍化が目立ちました。

社長在職中の逝去

2014年に、健康診断で胆管腫瘍が発見されたことを公表、切除手術は無事終了したものの、療養のため直後の株主総会を欠席してしまいます。

その後、10月の経営方針説明会で公の場に再び登場し、翌年6月に行われた株主総会には姿を見せ議長を務めました。

しかし、7月に入ってから体調を崩して入院し、容態が急変。
任天堂の社長在職中のまま、京都大学医学部附属病院で逝去(満55歳没)。
逝去の事実は、13日に任天堂より公表されました。

また、岩田の死は世界でも大きく報道されました。

なお、最晩年の2015年3月期の決算では、4期ぶりに営業黒字に回復することに成功しました
また、ディー・エヌ・エーと業務提携によるスマートフォン向けサービスを共同開発することや、新型ゲーム機「NX」(コードネーム、後のNintendo Switch)を開発中であることも発表していました。

業績が上向き、事業構造の変革や新規ハードの製作に乗り出した途上での急逝となりました

「岩田 聡」氏の人物像

若くして亡くなってしまった「岩田 聡」氏ですが、ゲーム業界に与えたインパクトは大きく、特に「Wii」は、ゲームを個人で楽しむだけでなく、家族で電子ゲームを楽しむという新たな価値を提供してくれました。

そんな、「岩田 聡」氏ですが、「プログラマはノーと言っちゃいけない」という持論を持っていました

「どんなに困難なプログラミングが想定されたとしてもノーと言った時点で企画そのものが駄目になるから、とにかく実現を目指し、無理だった際の代案も考える」という理念だったようです。

また、かなりの読書家であり、多忙な中でもビジネス書をはじめとした読書を欠かさなかったとのことです
晩年の闘病生活中は最新の医学書やネット上の医学情報の検索によって自らの病気について学び、どのような治療プランが最適かについて主治医と議論していたといいます。

社員との対話を重ねることで、任天堂をさらに発展させるとともに、ゲーム業界をリードした「岩田 聡」氏の経営手法は、今後も多くの経営者のお手本にきっとなるでしょう。

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